ルドルフヘス【子孫】妻や娘・息子・孫(家族子供)のその後

ヘス一家が主役の映画『関心領域』が公開されたということで、
ルドルフ・ヘスの妻や娘息子がその後どうなったのか、
まとめてみました。

ルドルフ・ヘスの最期は知られていますが、
彼の家族が終戦後どのように生きていったのかは、
あまり知られていないですよね。

目次

ルドルフ・ヘスと家族のその後を簡単に

〈スドルフ・ヘス家族写真〉

ヘスファミリーの写真
当サイトで撮影,ルーシー・アドリントン著,宇丹貴代実訳『アウシュヴィッツのお針子』

〈孫、ライナー・ヘス(次男の息子で長男)〉

ルドルフの孫、ライナー・ヘスの顔写真(次男の息子)
ハナ・カシュパリコヴァ, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

〈孫、ライナー・ヘス(次男の息子で次男)〉

sunday-news.info(https://sunday-news.info/kai-hoess-oeffnet-seine-tuer-um-der-wahrheit-willen/)
  1. ルドルフ・ヘス
    • 1929年~1947年。ポーランドのアウシュヴィッツで逝去。
  2. ヘートヴィヒ・ヘス(妻)
    • 1908年3月3日~1989年。
  3. クラウス・ヘス(長男)
    • 1930年2月6日~1980年。オーストラリアで逝去。
  4. ハイデトラウト・ヘス(長女)
    • 1932年4月9日~2020年以前。ドイツで逝去。
  5. インゲ・ブリギット・ヘス(次女)
    • 1933年8月18日~2023年10月。
  6. ハンス・ユルゲン・ヘス(次男)
    • 1937年5月~2023年以前。
  7. アンネグレート・ヘス(三女)
    • 1943年11月7日~?

・〈主な〉孫(ルドルフの次男の息子)

  1. ライナー・ヘス(長男)
    • 存命と思われる
  2. カイ・ヘス(次男)
    • 存命と思われる

ドイツが負けると、
ルドルフ・ヘスは、インリヒ・ヒムラー(ナチス・ドイツの政治家であり、親衛隊全国指導者)より、
「生き残るために国防軍に紛れ込め」との命令を受け、その通りにしました。

イギリス軍の目をかいくぐり釈放されると、
フランツ・ランという偽名を使い、
シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の農場に雇われ働きました。

妻子は、
同州にある聖ミヒャエリス教会にあった砂糖工場に逃げ込み、
そこで暮らしました。

しかし突き止められてしまい、とらえられ、
イギリス軍たちが毎日のように訪れ、
「父はどこだ」と、尋問されます。

そしてヘート・ヴィヒはついに、
息子をシベリアに連れていくと脅されたことで、ルドルフの居場所を白状します。

1946年3月11日、ルドルフ・ヘスは逮捕され、
1947年4月16日、アウシュヴィッツの地で公開絞首刑に処されました。

残された家族は、貧しい生活を送りました。
また、人々には避けられました。

貧しさのあまり、
彼らは家を暖める為の石炭を列車から盗み、
足には、靴の代わりにぼろ布を巻きました。

しかし長男のクラウスの仕事がシュトゥットガルトで決まると、
生活はなんとか立て直されました。

ヘス一族の家系図なはこちら

ルドルフ・ヘスの妻、ヘートヴィヒ(あるいはヘドヴィヒ・ヘドウィグ)のその後

ヘートヴィヒ・ヘス(妻):1908年3月3日~1989年。

※以後、根拠が曖昧な記述は青で表記。

ヘートヴィヒは、
ルドルフが逮捕される前、
英国諜報機関に居場所を突き止められ、尋問を受けていました。
(彼女は後になって義父に居場所を割られた、裏切られたと話していたらしい)

尋問は5日間に及びましたが、
しかしヘートヴィヒは、一貫して「夫は死んだ」としか答えません。
英国諜報機関はそれで作戦を変え、息子をロシアのシベリアに連れて行くと脅しました。

それがイヤだったら、10分待つので、夫の居場所と偽名をこの紙に書けと脅しました。

それでヘートヴィヒは、息子を守る為、夫の居場所を白状することにしました。
(次女の証言によると、母の隣の部屋では、長男クラウスに対する暴行が行われ、叫び声が聞こえてきていたそうです)

そして1960年代半ば、
ヘートヴィヒは、フランクフルトで行われたアウシュヴィッツ裁判に、証人として短期間出廷しました。

その後ヘートヴィヒの痕跡は途絶えましたが、
どうやら彼女は、ドイツのシュトゥットガルト近くの小さな家に引っ越し、
その後は末娘と暮らす為にフルダに越したようです。

ヘス家が貧乏だった理由は、
ヘートヴィヒが戦犯者の未亡人であるという理由で、
国から支給される軍人恩給やその他の収入が与えられなかった為のようです。

孫のカイ(次男の息子で次男)によれば、
ヘートヴィヒは親切で、
兄のライナーと自分は、彼女と過ごすことが好きだったといいます。

彼女がフルダに越してしまうまでは、共に過ごすことが多かったそうです。

そして孫のライナー⦅次男の息子で長男⦆の話によれば、
※ライナーは、1991年~詐欺、脅迫、暴力などの罪に問われ13件の有罪判決を受けています。ライナーは母親のイレーネからルドルフ・ヘスの財産を騙し取ってそれをイスラエルにあるヤド・ヴァシェム記念館(ホロコースト記念館)に売却しようとしたり、ホロコーストの犠牲者にまるで興味がないのに、興味があるかのように見せかけてその活動の為の募金を募ったりするなど、ルドルフ・ヘスの孫であるという立場を利用して、儲けようとしたことの罪に問われています。インタビュー内容や出版した本の内容にも嘘が多いことを親族から指摘されています。例えば、彼の話はカイの証言とも食い違うところがあり、ライナーの話を信用して良いかというと微妙です。
カイはライナーの嘘を正したいという思いで、公の場に出てきたという経緯があります。
インゲ・ブリギットもライナーを厳しく批判しています。
ライナーは現在ヘス家とは完全に縁が切れた状態です。

ヘートヴィヒ・へスは、
強者の元ナチスでさえ愛玩犬のようにしてしまう人だったそうで、
彼らが部屋に入ってきたそのときから、その場を支配しているようだったといいます。
⦅ヘートヴィヒは、気が強く、そして魅力的な女性だったようですね⦆

ヘートヴィヒに支配されているようだったというのは、
子供たちに対してもある程度同じことだったらしいですが、
末っ子の3女だけは、別だったといいます。
末っ子には、つい甘くなっていたのでしょうかね。

また、ヘートヴィヒは、アウシュヴィッツについて尋ねられると、

「どうせお前には理解できないわ。 困難な時代だったから、忘れた方がいいのよ」

ハナマゴンの雑記帳https://blog.goo.ne.jp/hanamamagon/e/69734efbc05514f04d3daef02c22044e

とはぐらかしていたといいます。

ライナーは、ヘス家のホロコースト否認の根源は、ヘートヴィヒにあると考えていたようです。
また、ルドルフについては激しい嫌悪を示しています。※が、これもパフォーマンスである可能性があります。なぜなら、彼はドキュメンタリー『ヒトラー・チルドレン~ナチスの罪を背負って』にてヘス家を見学した際、まるで観光客のように楽しんでいた様子に見え見られた為です。)

そして1989年9月。
ヘートヴィヒは、81歳のときに、
アメリカに住んでいる次女の家に泊まりにきて、眠ったまま亡くなりました。
(本当はその前にドイツに帰る予定でしたが、疲れているので、もう少し泊まらせてほしいということで泊まったところだった)

ヘートヴィヒの埋葬は、彼女の誕生日である1990年3月 3日午前11時にあわせて、次女の住む地元で行われ、墓石もそこに建てられました。(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の墓の中)

ですが辺りにはユダヤ人も住んでいた為、
次女は彼らからの報復を警戒し、墓石に名は刻まなかったということです。

ヘートヴィヒはご長寿でしたね。

最後次女の家を選ぶようにして亡くなられたというのは、思わされるものがあります。次女の家は居心地が良く、また次女の顔も見られて、安心されたのでしょう。

ルドルフ・ヘスの子孫(息子/娘)のその後

①ルドルフの長男、クラウス・ヘスのその後

クラウス・ヘス(ルドルフの長男):1930年2月6日~1980年。

クラウス・ヘスの死因は、アルコール依存症によるものだったようです。50代で亡くなられています。

クラウス・ヘスは、ドイツの女性、リゾレットと結婚後、オーストラリアのシドニーに移住し、一人娘のクリスティーネ・ヘスを育てました。

しかしその後離婚し、亡くなったようです。

いろいろありましたから、飲まなくちゃやっていられなかったでしょうか。

アウシュヴィッツにいた頃のクラウス・ヘスは、
使用人をパチンコで撃つなどしていじめるなど(当時の使用人による証言)、中々悪名高かったのですが、
大人になってからは、どうやら丸くなったようです。

ライナーの証言によると、クラウスは、人種差別的な発言をすることもなく、シュトゥットガルトの米軍基地で働いていたときは、アフリカ系アメリカ人の友人もいたようです。

また、クラウスがオーストラリアに移住した理由は、彼が薬剤師助手の資格を持っていたけれど、ドイツ国内では需要が少なった為だということです。

しかしその後はパンナム航空とカンタス航空の貨物専門家として働いたので、そのお陰で、定期的にドイツに戻ってきて、結婚式などの家族行事に参加することができたといいます。(度を過ぎて飲み過ぎてしまう為、家族に恥ずかしい思いをさせることは多々あった)

クラウスが改心したのであれば、父親の遺言による影響が大きいのかもしれません。

というのもルドルフは、クラウスに、次のように手紙を遺しています。

良い心を持ち続けなさい。温かさと人間性に身を任せる人間になりなさい。自分の頭で考え、責任を持って判断することを学びなさい。すべてを批判することな く、絶対的な真実として受け入れないように……。私の人生における最大の過ちは、上層部からもたらされたものをすべて忠実に信じ、自分に提示さ れたものの真偽について少しも疑いを持つ勇気がなかったことだ … すべての事業において、自分の心に語らせるだけでなく、何よりも自分の心の声に耳を傾けなさい。

https://navymule9.sakura.ne.jp/Rudolf_Hoess.html

父親の仕事していますよね。ルドルフは、クラウスに行きすぎた行動を見て、それがいつかは身を滅ぼすことになるのではないかと、心配していたのかもしれません。

クラウス・ヘスは、父親を尊敬しているように感じます。(家族写真の中の父親に対する眼差しからも、尊敬や憧れが感じられる気がします…)

クラウス・ヘス彼は軍人に憧れていたのですが、それも、父親に対する憧れの表れだったかもしれません。

②ルドルフの長女、ハイデトラウト ・ヘスのその後

ハイデトラウト ・ヘス(長女):1932年4月9日~2020年以前

ハイデトラウトは最後、認知症とガンを患ったようです。

また、ドイツ北部に住んでいたということです。

ハイデトラウト・ヘスは、クラウスと同じように、父親について、公の場で語ることはなかったようです。

ドイツで逝去しました。

しかし、ホロコースト否定で知られるフランス人の学者、ロベール・ファウリッソンのインタビューパートナーを、定期的に務めてきたといいます。(次女は、ファウリッソンに感謝のしるしとしてアウシュヴィッツで撮った家族写真を贈った)

ファウリッソンは、ガス室などなければ、ヒトラーが残虐な命令をしたこともないと、異論を唱えたようです。が、現代となっては、よくそう思えたなと思ってしまいますね。

しかしハイデトラウトもファウリッソンのインタビューパートナーを務めたということは、彼の主張に賛同していたということですよね。(そしてファウリッソンに感謝のしるしを贈った次女も)

ファウリッソンはホロコーストを否定したことによって、罰金を科されたり、60歳のときに「ユダヤ人の記憶の息子たち」を名乗る3人の若者から暴行を受け、顎の骨を折ったりしたそうです。

大変でしたね。ハイデトラウトまでそのような目に遭ったわけではなかったようで良かったです。

③ルドルフの次女、インゲ・ブリギット・ヘスのその後

nfobae(https://www.infobae.com/historias/2021/09/14/la-bella-modelo-alemana-que-triunfo-en-espana-y-durante-80-anos-oculto-su-pasado-como-hija-del-animal-de-auschwitz)

インゲ・ブリギット・ヘス(次女):1933年8月18日~2023年10月

ブリギットは、10代で名前を変え、父親のことを尋ねられても「戦争で亡くなった」とだけ答えるようにしていたといいます。

やがてドイツでの生活に耐えられなくなり、新しい生活をスタートさせようと、スペインに移住しました。

そこで、美しく高身長だった彼女はモデルにスカウトされ、ファッション業界で活躍することになります。

ブリギットは、その後エンジニアのアメリカ人と結婚し、子供も2人もうけました。

1972年にアメ​​リカワシントンに移住し、夫は運送会社で上級職に就きました。ブリギットは今度はユダヤ人が経営するファッション店に35年勤めました。

このユダヤ人が良い人で、ブリギットの「父親はルドルフ・ヘスである」という告白を聞いても、「あなたに責任はない、あなたはまだ子供だったのだから」と言って、態度も何も変わらないでいてくれたといいます。

ブリギットは、ホロコーストは存在していたし、それは許し難いことであると認めています。

しかしホロコーストによる犠牲者数については、
実際よりひどく誇張されて伝えられていると感じていたようでした。

ブリギットは、父親が、イギリス軍に拷問されたので、100万人以上のユダヤ人の死の責任を自白したと考えているというのです。

しかしブリギットは、父親が遺した手記については、読む興味が全く起こらないということで、
最後まで目を通すことはなかったようです。

普通興味を持ちそうなものですが、
それらが拷問の末に書かされたものであると信じるのであれば、
確かに読みたいとは思いません。

ブリギットは父親に対し、
「父は本当に愛情深い人だった。 彼にはふたつの面があったに違いないわ。 私たちは一度も見ることのなかった面が」
「彼は世界で一番優しい人だった」
「彼はそうするしかなかった。彼は脅された。そして彼はSS隊員の大勢のうちの一人だった。彼がそうしなければ、そうする人たちもいた」
などと話しました。

ブリギットは夫と離婚し、
晩年は、癌と鬱を患いました。
(名前はそのまま元夫の姓を使った)

ブリギットのベッドの上には、
1929年に挙げられた両親の結婚式の写真が飾られていました。

最後に住んでいたのはアーリアトンで、そこで亡くなられたとのことです。

④ルドルフの次男、ハンス・ユルゲン・ヘスのその後

ハンス・ユルゲン・ヘス(次男):1937年5月~2023年以前

ハンス・ユルゲン・ヘスは大農場の娘・イレーネと結婚した為、
ふたりの息子、ライナーとカイを、
非常に恵まれた環境で育てることができました。

カイいわく、家族を支配していたのは、実家の農場にいた働き者のカロライン(イレーネの母親)だったといいます。

ハンス・ユルゲンは、この田舎風の雰囲気にうまく馴染むことができず、実業家としての腕を磨いていました。

しかし事業は失敗、多額のお金を浪費したことによって、イレーネに大きな負担が掛かりました。

その後ハンス・ユルゲンは運転手として働き、後にドイツにあるスウェーデンの自動車会社の総代理店を引き継ぎました。

が、夫婦関係は悪化し離婚しています。

ハンス・ユルゲンは離婚した後は家族との連絡を絶ち、エホバの証人(キリスト教系宗教団体)のところへ行くと、2020年頃にはドイツのバルト海沿いの家に住んでいたということです。

ライナーの証言によれば(カイによれば以下は逸話だ)、
ハンス・ユルゲンは、
反ユダヤ主義で、
近所のユダヤ人の子と遊ぶことを禁じ、
家庭内では独裁者のようにふるまっていたということでした。

そしてライナーは、父親、ハンス・ユルゲンに触れることすら許されなかったといいます。

ハンス・ユルゲンは、
ルドルフ・ヘスがユダヤ人の大量虐殺に大きく関わっていたことを認めず、
妻子が反論しようものなら、厳しく罰したそうです。

これが事実なのであれば、ハンス・ユルゲンは、
大好きだった父親を奪われ、その名誉も奪われたことが、
我慢ならなかったのだろうと想像することになりますが…

しかしカイの主張は違っていました。

ハンス・ユルゲンは、
暴力的だったこともなく、
むしろ気性は穏やかで、エスカレートしにくかった。

近所のユダヤ人とは子供たち同士で遊んでいたし、
両親が、彼らユダヤ人に対して軽蔑的な発言をしたところなど耳にしたことはない。

それどころかハンス・ユルゲンは、
近所の子供がひどい怪我をするとすぐに駆けつけて彼を少年病院へと送り、
その彼のことを本当に心配していたといいます。

子供のときのハンス・ユルゲンのイメージに近いのは、
カイが語る父親像の方ですよね。

それに、ハンス・ユルゲンは両親に大事に育てられたのですから、
彼も当然子供を大事に育てることができる父親になることの方が自然に思えますよね。

⑤ルドルフの三女、アンネグレート・ヘスのその後

アンネグレート・ヘス(三女):1943年11月7日~?

アンネグレートは、1943 年にアウシュヴィッツで生まれました。

ドイツ北部フルダに住んでいました。

年に一度フロリダへで、ブリギットと過ごします

アンネグレートに関する情報は特段ありません。

これは、彼女がルドルフの子供の中で最も彼の影響を受けていないということが、いえるように思います。

アンネグレートには、父親の記憶も、アウシュヴィッツの記憶も、恐らくほぼないでしょう。

父親の記憶がないというのは寂しいものですが、もしかしたら良いこともあったのかもしれないですね。

⑥ルドルフ・ヘスの長男、ライナー・ヘスのその後

ライナー・ヘスは初め、世間にとって、ルドルフ・ヘスの孫でありながら彼を厳しく批判し、ネオナチ(ヒトラー崇拝者)と闘う英雄でした。

しかしそれが現在では、金と承認欲求の為に、ルドルフ・ヘスの孫という立場を利用してビジネスを展開した詐欺師というのが、彼に対する現在の世間の評価となっています。

ライナーは過去に、偽造、詐欺、窃盗、強盗、身体的暴力の罪によって実刑判決を受けており、多額の罰金を科されていた為に、経済的に困窮していたようです。

ライナーは、1991年~2020年までに、詐欺や文書改ざんなどの罪で裁判所で13回有罪判決を受けています。

・ライナーは実家の地下室に眠っていた(ヘートヴィヒが置いていった)アウシュヴィッツでの思い出の品を、ホロコースト記念館に売ろうとしました。(記念館側は怒ってこれを断わった)

・ナチスの人体実験の生き残りであるエヴァ・モゼス・コールに養孫になりたいと名乗り出ました。(エヴァ・モゼス・コールは彼が詐欺師であると分かった後関係を解消した。当時のメディアが報じた内容によれば、彼女は、彼に対して自分の悪魔を克服してほしいと願っていたようだったが、ついには無理だと悟って離れたようだ)

・2013年には、『Das Erbe des Kommandanten: Mit einem Vorwort von Bernhard Gotto』(司令官の遺産)という本を出版しました。
が、今では読者に「おとぎ話」であるといわれています。

ライナーは、カメラの前で見せる姿と、カメラの外での姿がまるで違ったようです。

しかし被害者は恥ずかしさから口を閉ざし、
ジャーナリストは何ら気にしない為、
ライナーは、ホロコースト記念日の前後には、テレビ番組に専門家として何度も招待されていたといいます。
(日本で例えるとジャニーズの性加害問題と重なる部分がありますね)

ライナーは、1985年までに母親を除く家族と縁を断ちました。

ライナーが語ったことは多いですが、偽りが多く、それが事実であると判断することは難しいです。

⑦ルドルフの孫、カイ・ヘスのその後

カイ・ヘスは、ハンス・ユルゲン・ヘスの次男。

ライナー・ヘスが出版した本の内容に偽りがあることを発信する為、公の前に姿を現しました。

カイの幼少期は、兄のライナーや、村の多くの友人たちと過ごし、幸せだったといいます。

しかし両親の関係が悪化。

カイは18歳のときに臨時兵士として家を出ると、その後20年間は、ときおり家に戻るくらいになりました。

その後は料理見習いとして働き、それが終わるとベルリンでホテルの経営について学び、マカオ、香港、フィリピン、バリ、ドバイ、カイロなどの大規模なホテルに勤務しました。

イギリス人の妻がいましたが、ベルリンで破局し、その10年後に、インドネシアのバリ島でラフマと出会い人生を共にします。

4人の子に恵まれ、豊かで幸せそうに暮らしています。

ヘス一族の家系図はこちら

まとめとしては、
ルドルフヘスの家族は、皆自然死した。

クラウスは50歳代で亡くなったので、現代で考えると早かったが、
皆比較的長く生きた。

子供達は離婚が多い。
皆それぞれ葛藤していたようだけど皆良い人そう。
そして父親・ルドルフを愛していた模様。

…というところでしょうか。そして、ライナーが各メディアでウソの証言をし、それが記事になっているものもあるようなので、どれが事実でどれが事実でないのか、分かりづらくてしんどいということです。

参考:
ドキュメンタリー『アウシュビッツ ナチスとホロコースト』
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13

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