聲の形|障害者の方の感想まとめ
①「筆談ホステス」で有名な斉藤りえさんへのインタビュー記事
「私も『聲の形』は観たいと思っており、字幕上映をしてくれたことには、とても感謝しています。欲を言うなら、字幕の漢字にふりがなをつけてもらえたら、もっとうれしかったです」
「聴覚障がい者で、ずっと手話を使っている人だと、漢字が読めないことが多いのです。聴覚障がい者の子どもたちも、観る機会があると思うので、より親切になるかと思います」
斉藤りえさんは、聴覚障害をお持ちです。
1984年生まれで、1歳のときに、髄膜炎の後遺症で聴力を完全に失いました。
筆談を駆使した接客で成功した後、現在は政治家(東京都議員)として活動中です。
②くらげ(暗黒面)さんのまとめ記事
一番きついのは「西宮という人種に疲れていた」って独白ね。
求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~(https://togetter.com/li/459715)
結局のところ、ひどい健常者と良い子な障害者という構図はお腹いっぱいなんですよ!
求めていたのは和解ではなく拒絶~普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形~(https://togetter.com/li/459715)
くらげ(暗黒面)さんは、聴覚障害をお持ちです。
※くらげ(暗黒面)さんが読んだのは、2013年に週刊少年マガジンに掲載された読み切りです。内容は、子供時代の話+ふたりが出会って和解するところまで、といった具合です。大きく違うところは、先生が連載版よりいじめに加担している、という点だと思います。
③シュウさんのブログ
The word “nostalgia” is supposed to be used for pleasant memories, never did I think I’d feel “nostalgic” over bullying. Life is ironic, isn’t it?
https://shuubah.wordpress.com/2021/04/06/koe-no-katachi-a-silent-voice-in-the-eyes-of-a-physically-disabled-bully-victim/
(▲「懐かしさ」という言葉は楽しい思い出に使うべきなのに、いじめに対して「懐かしさ」を感じるとは思ってもみなかった。)
On the other hand, people don’t really know the extent of the suffering they inflict on others until they’re put in the same shoes.
https://shuubah.wordpress.com/2021/04/06/koe-no-katachi-a-silent-voice-in-the-eyes-of-a-physically-disabled-bully-victim/
(▲一方で、人は自分が同じ立場に立たされるまで、自分が他人にどれほどの苦しみを与えているかを本当には理解できない。)
Ishida keeping in touch with Nishimiya is one thing. He wants to make up to her, there’s no harm so long as she’s okay with being around him. But Ueno and Kawai are a different story.
https://shuubah.wordpress.com/2021/04/06/koe-no-katachi-a-silent-voice-in-the-eyes-of-a-physically-disabled-bully-victim/
(▲石田が西宮と連絡を取り続けるのは別に構わない。仲直りしたいのだから、彼女がそばにいてくれるなら問題ない。だが上野と河合は話が違う。)
シュウさんは、子供の頃から、原因は不明ですが歩くことができませんでした。
障害者の方の感想をリサーチしてみましたが、そう多くはありませんでしたね。
あるいは、もっと多くの障害者の方がコメントしているかもしれないですが、自身がそうであるということは、述べないのかもしれません。
④管理人の感想
かくいう自分も、子ども時代には障害があり、クラスメイトとコミュニケーションを取ることが困難であった為、学校では異質な存在でしたので、感想述べますね。
くらげ(暗黒面)さんの感想で、”一番きついのは「西宮という人種に疲れていた」って独白ね。”というコメントがありましたが、それが最も胸に残りました。
その理由は、自分はその言葉に対しちっともきついとは感じていなかったからのように思います。
そして、くらげ(暗黒面)さんが最も西宮さんと同じ境遇にいたように感じられたからです。
西宮さんは、聴覚障害を持っているという設定でした。
が、もしこれが、自分と同じ障害を持っていると設定されていたらと思うと、「西宮という人種に疲れていた」というフレーズは、本当にどっときます。
なぜならば、いちばん疲れているのは紛れもなく当人だと思うからなんです。
周囲は、西宮さんと関わっているときだけ疲れれば良い。
しかし西宮さんは、自分とはずっと離れられないのです。ずっと疲れていなければなりません。
「これでもがんばってる!」
西宮さんが、そう言って石田君と乱闘するシーンがありました。
ただ疲れているわけではなく、同時に頑張ってもいるんです。
しかしどんなに頑張っていようが、周囲からは手を抜いていると思われてしまうやるせなさと絶望感。
それは生きづらいことですが、それが周囲に理解されないことだということも同時に分かっています。
自分自身ですら、なぜできないのか、何が起こっているのか、理解することができませんから、周囲が理解できないのも、尤もなことだったのです。
当人からしても「普通」なのは彼らの方で、本当に「普通」になりたいのですが、しかし自分にできることといえば、無となり、下校時刻までただひたすらに耐えることです。
できない自分を責めるので、自分のことがいやになる一方なのです。
どんなときでも笑ってしまう宮下さんの心情、それは自分の場合、惨めになりたくなかったからですが、結局惨めなんですよね。
「西宮さんが石田を好きになることがありえない」という意見を見かけますが、自分はそうは思いません。
宮下さんはずっとクラスメイトと仲良くすることを思い描いていたのですから。
親から愛情を求める子供のように、
悲しくても、
クラスメイトのことを憎むことはなかったと思います。
心からの謝罪をれたら、それは救いになると思いますよ。
それも手話まで習得してくれている。
それは自分とコミュニケーションを取る為に時間と労力注いでくれたということであり、それだけの間、自分と向き合ってくれていたということです。
時は金なりですからね。
ありえないのは、むしろ石田君だと思います。
かつて自分がいじめていた相手の元に自ら謝罪しに訪れる、そんな人は、実際には存在しないのではありませんか。
そんな大それたことをやってのけた石田君は、精神的に卓越していると思いますし、宮下さんが心惹かれるには十分な、人間的な魅力を兼ね備えていたのだろうと思います。
なので、西宮さんが石田君に惹かれるのは、ごく自然のことに思えるのです。
しかしいじめる側の大半にとっていじめというものは、本来は些細なものなのではないかな、と思います。
だからいじめたのであって、引きずるようなことではない。
いじめたという感覚すら残らないのかもしれません。
つまり、いじめに関して、後になって罪悪感を抱えることは不可能に近いように思うのです。
これはナチス・ホロコースト関係ドキュメンタリーを観て感じたことですが、
人は他人の痛みにはどこまでも鈍感になれるのだなと。
自分が不愉快になって初めて、
いったい今何が起こっているのかということに疑問を持つことができて、物事の本質を見極めようとするのだなと。
それがひどいということを言いたいのではなく、
それが普通なのだろうなと思うのです。
人の痛みに敏感になれるというのは非凡なことですね。
シュウさんの感想にもありましたが、どうしたって本当に理解するには、
同じ立場になってみないと分からない、というのがリアルなところですよね。
リンゴがどんな味か?それは食べてみなければ分からないのと同じことだと思います。
しかし石田君はいじめられる側にもなったという点が、石田君の行動に説得力を持たせているのではないでしょうか。
あそこまでのいじめっ子が、あそこまでのいじめられっ子になるというのは、特異でした。(それも実際にはあり得ないのではないでしょうか)
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