このページには、
2024年6月に日本で公開された『フィリップ』を観た感想についてまとめてみました。
フィリップとタイトルにつく映画は他にもありますが、
ナチス映画の『フィリップ』です。
『フィリップ』のあらすじを知らないという人は、
下記記事でご確認下さい。
↓
フィリップ(ナチス映画)感想をネタバレありで
『フィリップ』は事前にみんなの感想を読んでから観に行きました。
そこで多かった反応が、
「女性を見下しているのが気持ち悪い」「復讐する相手が、女性ではなく、自分の家族をやった相手だったら良かったね」「下半身が元気すぎる」「フィリップを少しも好きになれない」といった、フィリップ(主人公)を否定するようなものでした。
やはり観に行くのよそうかと迷ったくらいの内容でした。
主人公に共感できず、応援することのできない映画なんて、つまらないと思ったのです。(結局観に行きましたが)
結果、主人公には好感を持つことができました。
壮絶な過去を背負って病んでいる姿には同情させられましたし、リザに恋をしてからは、病む前のフィリップが見え隠れしているようで、自然体に見えました。人間らしいのはずっとそうだったと思います。
リザから見た当初のフィリップのイメージは、最悪でしかなかったと思ったのですが、押しに弱かったのでしょうか。
デートに行くことを承諾することまでは理解することはできても、そのデートでひどいことを言われて(リザの人格を悪く決めつけ否定する)、それでもまた会ってあげるというのは…
リザはフィリップが虚勢を張っていることを理解していましたから、腹は立てても、本心でないことは分かったので、憎むことはできなかったのでしょうか。
困った人を放っておくことができないようなタイプに見えました。
女性を抱くことがなぜ復讐になるのか?
と疑問を持たれる方もいるようです。
が、それは、ナチスがもっとも世界で優れた民族はアーリア人だと信じていたからということになるのでしょう。
忌み嫌うユダヤ人に身も心も許した気分はどうだ、というところでしょうか。
『フィリップ』の原作者、レオポルド・ティルマンドは女性好きだったということもあり、
女性好きならではの復讐の形だったのでは、と考えずにはいられませんがね。
ナチスは、レーベンスボルンなるアーリア人増殖の施設を設け、親衛隊と若い女性をそこに集めて、赤ん坊を産ませていました。赤ん坊はたいそう大切にされたそうです。
ナチス(ヒトラー)は、アーリア人、スラヴ人、アジア人、アラブ人、アフリカ人、ユダヤ人の順に優れていると考えました。基本は肌色の明るい順で、ラストにキリストを磔にしたとされるユダヤ人が付いた感じですが、憤りを覚えますね。
ヒトラーは、ユダヤ人を全滅させた後で、アーリア人以外の全てを奴隷にする計画だったそうです。
が、ポーランド人であの扱いだったのであれば、日本人はどうなっていたのでしょう。
しかし、あの時代に、
フィリップがあれだけ自分に自信を持って女性を口説くことができていたというのは、
大変不思議ではありませんでしたか。
その自信はどこからきていたのでしょう。
元々モテていたのか、
はたまた、からだを鍛えていてたくましい体型をしていたからなのか。(視聴者からも好評でした)
自己愛というか、自己を信じる力はあったように感じました。
それまでが、惜しみない愛情を注がれて育てられたからなのかもしれないですね。
レオポルド・ティルマンドはイケメンです▼
そして意外にも胸に刺さった言葉は、フィリップの「平和は嫌いだ」という台詞でした。
この言葉は、フィリップが、自暴自棄になっている自分を心配したピエールに、「平和になったときのことを考えよう」と励まされたときに返した言葉です。なんてリアルな心理描写なのだと思いませんか。
世界がたとえ明日平和になっても、フィリップの心に平和が訪れることはなかったのでしょうね。
遅すぎたのです。
このシーンでは、
ガス室に送り込まれるユダヤ人が、隠れ家に残っているユダヤ人をナチスに告発するという実話も思い起こされます。
自分が幸福でないと、他人の幸福を祈るなど到底無理ですよね。
フィリップが、眠れないと言って体を動かしに行くシーンや、親友を失って号泣するシーンも、胸に刺さりました。
運動している時間は、頭を空にすることができましたが、親友を失ってしまったときは、さすがにムリだったようです。
途中から、狂って笑っているようにも見えました。
迫真の演技力でしたね。
悲しみと悔しさと怒りとで、もうゴチャゴチャだったのでしょう。
愛する人を納得のいかない形で失った経験のある人には、特に共感ができるシーンだったのではないかと思います。
結果、彼は未来を向いて恋愛よることよりも、過去を向いて復讐に生きることに決めた、そんな終わりでした。
フィリップはせっかくリザに心を開くことができたことで、優しくなって、本来の姿に戻れそうだったのに、環境がそれを許しません。
あと、残酷なシーンは、やはり胸に迫るものがありますね。
実際はもっと酷かったでしょうが、
それらは実際に起きたことだといえるので…
フィリップの仲間が、ドイツ人と体の関係を持ったことで、公開絞首刑に処されてしまうシーンがあります。
その仲間は、処刑場に向かう途中、引きつり笑いでフィリップを見つめ、足元の台がナチスに蹴飛ばされるその最後の瞬間まで、気丈に歌を歌い続けました。
フィリップも、悲しい顔をしたいのを堪えて、あえて笑おうと努めていたように見えました。
ふたりの関係性が伝わってくるようなシーンでした。
それから、フィリップのホテルでとある学校の同窓会が行われているようなシーンがありました。
男性は兵に取られてしまっているので、
ほとんど女性ばかりです。
しかしその少しの男性たちも、部屋の奥の方に集まって目立たなく過ごしており、
女性は「彼らは変わってしまった」などとフィリップに話します。
フィリップがその女性と仲良くしていると、
その男性で集まっていた内の一人が、フィリップに、"生意気だ"という感じで突っかかっていきます。
するともう一人の男性が止めに入るのですが、
バランスを崩し、そのまま床に仰向けに倒れ込んでしまいます。
彼は足がなく、松葉杖だった為、そのまま立ち上がることもできずに、情けなそうに笑います。
雰囲気は、すっかりもう喧嘩どころではなくなっていました。
フィリップに突っかかっていった男性も顔半分に火傷を負っており、
同窓会に参加していた男性は、戦争で大けがを負ってしまった為に、体も、そして恐らく心も変わってしまったということなのでした。
残酷ですよね。
ドイツ人にも、搾取する側とされる側がいたことを、改めて感じさせられると同時に、
戦争とは、その国の権力を持ったごく一部の人間が、国民を駒にしてやりたがっているゲームなのだと、改めて感じさせられます。
主人公は本当にクズで性格がひどいのか
ネット上に寄せられたとあるウクライナ人の方の感想に、非常に心を打たれたもので、紹介させて頂きたいと思います。(ページが分からなくなってしまい、原文も載せることができず、すみません)
この映画はポーランドで商業的にも大成功を収めましたが、ウクライナ人にとってはもっと重要な映画であることを強調したいと思います。ベスランについて冗談を言ったり、ロシアの民間人の死を喜んだり、サメのビデオを見て「非人間的」になったことがあるだろうか?これらの感情は、啓蒙的なヨーロッパを代表する人々にとっては「低俗」なものだが、それこそがこのような出来事の際に人々が感じるものであり、このような感情を経験することよりも、その感情を軽んじることの方がより大きな罪なのだ。エンディングでは、戦争が犠牲者に与えるすべての苦痛がどのような結果をもたらすかを示している。主人公は武器を取り、もはや小さな反乱にとどまることなく、祝賀の最中に女性や未成年の子供を含む支配民族のメンバーを無差別に皆殺しにする。こうして、ロマンチックなセリフで誤魔化されたハッピーエンドへの期待を打ち砕く。この瞬間、なぜこの映画がウクライナの映画祭マイコライチュクOPENで受賞し、シアトルやサンタバーバラの映画祭で注目されなかったのかが明らかになった。なぜなら、このような感情を検証し、それが普通であることを理解し、それを映画で表現することは、私たちにとって重要だからだ。
私は映画館に行ってよかったと思っている。ただし、予期せぬ爆発やスクリーン上の不安は覚悟してほしい。おかしな話だが、この警報が鳴った後、本物の空襲が始まり、私は映画を中断しなければならなかった。
ロシアによるウクライナ侵攻が2022年に始まってからというもの、
2024年現在も、戦いは続いています。
この感想を見るにどうやら、
『フィリップ』は、ポーランドではもちろんのこと、
ウクライナでも特別評価が高かったようですね。
この方の感想を読んで、
現在戦争に巻き込まれている人々の中で、
フィリップに嫌悪を抱く人は恐らくひとりもいないに違いないと感じました。
彼らはたぶん、
現代人の中では最もフィリップに近い境遇にいて、
最もフィリップの良き理解者なのでしょう。
フィリップがたとえどんなにひどいクズに見えたとしても、
結果論だけではなく、
その過程にも目を向けてほしい、ということですよね。
彼を取り巻いていた環境を考えると、彼が人間性を失ったことは、ごく普通のことであったと。
その人の人格を形成したのは環境だということは、
年を重ねていくにつれ、自然と理解することだと思います。
しかし普段は意識しないと思い起こさないことなのではないでしょうか。
ミハウ・クフィェチンスキ監督が、
この映画は戦争映画ではありません。トラウマに苦しむ孤独で疎外された男性についての映画です。
DECE+(https://filip.ayapro.ne.jp/)
と話しているように、
これは身近な問題であり、
加害者もまた被害者であるということがいえると思います。
しかし環境ではなく加害者を裁きたくなりますよね。
どうしたらこの世から不平等がなくなるのか、
どうしたら幸福度の格差が無くなるかということを考えたときに、
おおっぴらにはいえないですが、ここであれが出てくるのかもしれない、と思いました。
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